QED 鬼の城伝説
2005.1.10. / 株式会社講談社
岡山・吉備津神社に伝わる「鳴釜神事」。
一方、総社の鬼野辺家にも大きな釜が受け継がれていた。
こちらは、鳴ると主が死ぬという言い伝えがあった。
そんな鬼野辺家で、長男・健爾の生首が発見された。
岡山に訪れた祟たち一行は桃太郎伝説の謎に迫りながら、事件を解き明かしていく。
シリーズ第9弾。
岡山県の吉備津神社には10年くらい前でしたでしょうか、友人に連れて行ってもらった記憶があります。
残念ながら吉備津彦神社にまでは参拝出来なかったのですが、吉備津神社の描写がある頁を読み進めて行くとあの頃の記憶が朧気ながらに思い出されます。
とても懐かしいです。あの頃、この本を先に読んでいたらまた参拝した時に受ける印象が違っていたと思います。
その土地の歴史を知り訪れることの大切さを、著者さんの各シリーズを通しながら、毎度毎度教えられています。
この本を読了した後に、また参拝する機会があれば、遥か昔に存在した温羅たちのことに思いを馳せながら、感慨深く参拝出来ると思います。またいつか行けたら良いな。
今回は、誰もが知っているであろう「桃太郎伝説」についても紐解いていきます。
知らない間に自信の深層心理に植え付けられているイメージというものは、凄く強烈なものなんですよね。
かく言う私も、桃太郎と言えば幼い頃から何度も読んだり聞かせてもらったりした物語です。
なんでも鵜呑みにするのではなく、自分で考えるって本当に難しいけれど、大切なことですね。
今回は、奈々の気持ちの変化…とでも言うのでしょうか。そこら辺を見ると、殺伐とした殺人事件の最中にありながらも少し心がほっとします。
人を好きになるということ、愛情というもの…奥深く、そしてとても恐ろしく強いものですね。
また次巻も楽しみに読ませていただこうと思います。
我々の所持している記憶というものは、脳内における電気パルスだけではなく、ある種のタンパク質としても蓄積されているということになる。
脳ほど、自分の思い通りにならないものはないぞ
真金吹く吉備の山風うちとけて
細谷川も岩そそぐなり
人の記憶は理論ではなく、いつも感情に支配されている
浮世をば今こそ渡れ武士の
名を高松の苔に残して
関より西なる軍神、一品中山安芸なる厳島、備中なる吉備津宮
真金吹く吉備の中山帯にせる
細谷川の音のさやけさ
地獄道には、手に人頭の標幟を持った檀陀地蔵。餓鬼道には、宝珠を持った宝珠地蔵。畜生道には、如意宝の印相を結んだ宝印地蔵。阿修羅道には、大地を持った持地地蔵。人間道には、除蓋障地蔵。天道には、日光地蔵がいる。そこでそれぞれの地蔵を祀って、迷い多き我らの魂魄を救ってもらおうというのが六地蔵信仰だ。
何につけても世の中の物事・出来事は複雑に絡み合っているんです。だから、一つの部分だけ取り出してそれでお仕舞いというわけにはいかない。
真玉如す 吾が思ふ妹
鏡如す 吾が思ふ妻
ありと言はばこそよ
家にも行かめ 国をも偲はめ
2017.06.13(Tue) | 【た行】:高田 崇史 | cm(0) | tb(0) | ▲

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